| ・伊治城は神護景雲元年(767)に、当時の律令政府が蝦夷侵攻の拠点として築いた古代の城柵です。
造営は、当時の鎮守将軍である田中朝臣多太麻呂と道島宿禰三山が当たり、「続日本紀」の神護景雲元年一〇月一五日条には「伊治城作了」と記されています。
同、神護景雲元年一一月乙巳条によると栗原郡を建郡し、神護景雲三年六月一一日条には伊治村に「浮宕百姓二千五百余人」を配した事が記されている事から、柵戸の充実を図るべく百姓の強制移住が行われた事が窺えます。
宝亀11年(780)には紀広純が伊治郡大領である伊治呰麻呂等、朝廷方に味方する俘囚を率いて伊治城に入っています。
紀広純は奈良時代の公卿で、大納言である紀麻呂の孫に当たり、天平宝宇2年(758)には北陸道問民苦使に任ぜられ、宝亀5年(774)7月には鎮守副将軍に就任、陸奥守兼鎮守将軍である大伴駿河麻呂の下で蝦夷征討の任に就いています。
さらに、宝亀6年(775)に陸奥介となり、同年には桃生城に侵攻した蝦夷鎮圧に尽力し、陸奥守や陸奥国按察使、鎮守将軍等に昇格、宝亀8年(777)には鎮守権副将軍に任ぜられた佐伯久良麻呂の援軍を得て出羽国志波村の蝦夷鎮圧を行っています。
伊治城に入った紀広純ですが、宝亀一一年(七八〇)三月二二日条によると伊治呰麻呂が離反した事で城内で殺害されています。
伊治呰麻呂は蝦夷の族長の1人で、早くから朝廷に従った事から「俘囚」と呼ばれ、宝亀7年(776)から行われた山海二道蝦夷征討戦に参加し功績を挙げ、宝暦9年(778)には外従五位下の位階が授けられています。
外従五位下は俘囚の中でも最高位に当たり、伊治郡の大領にも任命、「公」の姓も与えられ、伊治公呰麻呂とも称されました。
しかし、朝廷や紀広純からの度重なる理不尽な要求や、領地が簒奪される現状を目の当たりにし、さらに牡鹿郡大領道嶋大楯との対立等により、他の蝦夷の蜂起に同調、伊治城の城内に居た紀広純や陸奥介大伴真綱、道嶋大楯を襲撃し、伊治城を掌握しています。
紀広純と道嶋大楯は殺害されたものの、大伴真綱は伊治城からの脱出に成功し、多賀城に落ち延び再起を期しましたが、蝦夷の大軍が侵攻し多賀城は落城、多くの物資は略奪され施設は炎上しています。
その後の伊治呰麻呂の動向は不詳ですが、延暦15年(796)には坂東諸国の民衆9千人が配され、荒廃していた当地の立て直しが図られています。
伊治城の城址からは8世紀から9世紀初頭までの遺物が多数発見され、延暦20年(801)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の中心人物である阿弖流為を降伏させるまで4回に渡り胆沢地方に遠征した事から、朝廷方の最北端に位置していた伊治城が拠点として利用されていた可能性があります。
延暦21年(802)に胆沢城、延暦22年(803)に志波城が築城されると、次第に伊治城の重要性が失われ、その後、廃城になったと思われます。
伊治城は南北約900m、東西約700mの外郭、その内側の南北約245m、東西約185mの内郭、その内側の南北約60m、東西約55mの政庁で構成されていました。
外郭は不整五角形で周囲を土塁と堀、築地塀で囲い、内郭は基底部幅約3mの築地塀で囲っていたようで、外郭は住居域、内郭は官衙として役所施設が複数建ち並んでいたようです。
跡地からは、兵士等が使用したと思われる生活用品や墨書土器を含む須恵器、土師器、灰釉陶器、赤焼き土器等の焼物類、武器の一部等が多数発見されています。
伊治城の歴史的価値は高く、現在も土塁の一部が残され、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
又、伊治城の城址の竪穴建物跡床面から発見された古代武器・弩の発射装置「機」である弩機は、長軸70mm、短軸45mm、高さ53mm、国内唯一の遺構として貴重な事から宮城県指定文化財に指定されています。
伊治城の名称については、多賀城出土漆紙文書に「此治城」と記されており、「此」と「伊」の訓読が同じ事から「此治城」と「伊治城」は同じ城を指していると考えられる為、「イ」ではなく「コレ」と読め、実際は「コレハルジョウ」又は「コレハリジョウ」と呼ばれていたと推定されています。
又、現在の地名である「栗原(クリハラ)」も「コレハル」又は「コレハリ」が転じた可能性が示唆されています。
宮城県:城郭・再生リスト
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