郷六城

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郷六城:略データ
・場 所・宮城県仙台市青葉区郷六字館
・築城年・伝:鎌倉時代初期
・築城者・伝:国分胤通
・城 主・国分氏、郷六氏
・構 造・平山城
・文化財・仙台市指定史跡
・指定日・昭和50年(1975) 12月11日
・概 要・郷六城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、国分氏の始祖とされる国分胤通が当地に入部した際に築いたのが始まりとの説があります。

国分胤通は千葉常胤の5男として生まれ、下総国葛飾郡国分郷(現在の千葉県市川市国分)を本貫地としていた事から、地名に因み「国分」姓を掲げました。

元禄16年(1703)に成立した「伊達正統世次考」や明和9年(1772)に編纂された「封内風土記」によると胤通は源範頼の平家追討に従軍し、文治5年(1189)に発生した奥州合戦や元久2年(1205)に発生した畠山重忠の乱でも功績を挙げた事から陸奥国宮城郡国分荘や名取郡内に所領を得て奥州国分氏の祖となったと記されています。

又、江戸時代前期から中期の儒者・画家・書家である佐久間洞巖が編纂した「平姓国分系図」によると胤通が郷六城を築城したと記されています。

建久7年(1196)には国分氏3代当主胤重の弟である胤継が郷六丹後守政国の養子となり、郷六城に入ったとも云われています。

ただし、上記の資料の信憑性については疑義があり、少なくとも室町時代以降の国分氏は長沼姓だった事が知られ、戦国時代に留守氏によって記された「奥州余目記録」によると、長沼姓の僧侶が婿養子として国分氏の名跡を継いだとしています。

何れにしても、国分氏は郷六城を築いた後に、新たに千代城を築き本拠地を遷した為、郷六城には一族である郷六氏が城主を務めたようです。

郷六氏が奉斎した宇那禰神社には福徳元年(延徳2年:1490年)に藤原朝臣長沼伊勢守政継、天文5年(1536)に藤原朝臣長沼式部少輔宗次、永禄5年(1562)に藤原朝臣長沼郷六大膳宗家が社殿を造営した事が記された軒札が現存している事から、郷六氏が長く城主を担っていた事が窺えます。

宮城県仙台市青葉区郷六字葛岡に鎮座している松尾神社の由緒には永禄8年(1565)に国分氏家臣郷六大膳が山城国葛郡鎮座の松尾神社から御霊を勧請し当社を創建し郷六氏の守護神とした旨が伝えられています。

さらに、宮城県仙台市青葉区上愛子字宮下に鎮座している諏訪神社の由緒によると康正3年(1457)に国分下野守宗治と郷六九郎が再興、永禄2年(1559)に国分能登守宗政と同丹後守宗元、息刑部左衛門綱元、郷六讃岐守政次、息惣左衛門政友が社殿を再築して神馬一頭を寄進、慶長3年(1598)には国分氏が没落した為、郷六惣左衛門と山岸修理助、堀江長門守、同但馬守が施主となり遷宮したと伝えられています。

又、郷六城の登城口には建武三年(1336)銘の古碑がある事から、奉納氏名は判らないものの郷六城の歴史の一端を知る事が出来ます。

戦国時代には国分盛氏の弟である盛貞が郷六大膳盛継の養子として郷六家の名跡を継ぎ、さらに、盛氏の庶子である七郎盛政が郷六家を継ぎ国分氏との関係性が強化されています。

その後、国分氏は伊達家に従うようになり、天正5年(1577)に伊達輝宗の弟である政重が国分家の代官として送り込まれています。

結局、政重は国分家を乗っ取ったようで国分盛重を名乗り、郷六氏も伊達家に従属しています。

「仙台領古城書上」によると、郷六城は国分氏の臣、郷六大膳盛元入道道与(盛政の子供)の居館である旨が記されていますが、天正年間(1573〜1592年)に愛子郷と郷六郷の2ヶ郷を所領していた内、郷六郷を取り上げられた為、盛元は愛子郷に本拠地を遷した事から、郷六城は廃城となっています。

郷六城は比高20m程の丘陵に築かれた平山城で「仙台領古城書上」によると主郭の広さは東西三〇間、南北四〇間、単郭で周囲を土塁と堀で囲んでいました。

現在は多くが畑として利用されていますが、土塁と堀の一部が残され、貴重な事から仙台市指定史跡に指定されています。

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