| ・西館が何時頃築かれたのかは判りませんが、鎌倉時代以降、当地は奥州管領だった大崎氏の領地だった事から、その支配下にあったと思われます。
戦国時代には大崎氏と葛西氏との争奪戦が繰り広げられようで、大崎氏の家臣である室田小斎や葛西氏の家臣である有壁摂津守等が城主だったと云われています。
天正18年(1590)に発生した小田原の役で大崎氏と葛西氏は豊臣方の参陣を怠った事から、その後に行われた奥州仕置きにより改易となっています。
その後、当地は伊達領となり、江戸時代に入り仙台藩が立藩、慶長16年(1611)に伊達家の家臣である後藤信康が不動堂村226石余りが与えられ、跡を継いだ後藤近元が西館を本拠地としました。
後藤家は正二位右大臣藤原魚名公の六代後裔、藤原利仁を祖とし藤原姓を自称する氏族で、鎌倉時代には鎌倉評定衆や六波羅評定衆、六波羅引付頭等の要職を歴任しています。
室町時代の当主である後藤基末の代に出羽国置賜郡に下向すると、郡内のノソキ村、柳澤村、堀金村の三箇村を知行しています。
戦国時代の当主である後藤信秀の弟、後藤秀基は織田信長の兄である織田信廣に仕え、大功挙げた事で織田家の家紋「木瓜紋」を賜り、信廣が伊勢長島の合戦で討死した際、秀基も討死しています。
秀基の跡を継いだ後藤信道は織田信長に仕え、「木瓜紋」を後藤家の家紋にする事を許され、「朱塗りの槍」を賜っています。
この「朱塗りの槍」は長さ三尺の髭を貯えた大男が持つ事を常とし、江戸時代に行われた伊達家の参勤交代の際には「髭男の朱槍」として「片倉の糊刷毛槍」「茂庭の白槍」と共に伊達三本槍に数えられ行列の名物だったとされます。
後藤の朱槍は貴重な事から平成28年(2016)に美里町指定文化財に指定されています。
一方、本流の後藤家は伊達家に従い、後藤信家に嗣子が居なかった事から湯目重弘の二男として生まれた後藤信康を養子として迎えています。
信康は伊達政宗に重用され、特に戦では黄色の母衣を背負って武勇を誇っていた事から「黄の後藤」と恐れられ「甲州武田の高坂弾正の再来」と評されたと伝えられています。
信康は天正17年(1589)の摺上原の戦いや、同年の葛西大崎一揆鎮圧、文禄元年(1592)の朝鮮出兵、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでの上杉方の白石城攻め等で功績を挙げています。
慶長7年(1602)には桃生郡大森城の城主2千5百石に抜擢され、仙台城の築城総奉行も務めましたが、慶長10年(1605)には突如改易、慶長16年(1611)に赦免され江刺郡三照村500石、遠田郡不動村226石余りが与えられています。
慶長19年(1614)に信康が死去すると後藤近元が跡を継ぎ、元和2年(1616)には1千石に加増され、元和6年(1620)には西館を本拠地としてしています。
西館は仙台藩の行政区である要害に改められ、地名に因み名称を不動堂要害に改称、皎善寺を後藤家歴代の菩提寺にする等、領内の整備が行われ、2千石に加増されています。
又、元和7年(1621)には不動堂の別当寺院で、後藤家の祈願所となる三嶽山大聖寺が開創され、当地五代目後藤元康の菩提寺となっています。
寛永12年(1672)には後藤近康によって観音堂が造営され、貞享3年(1682)には後藤節康が宮城郡に境内を構えていた真言宗雲谷山長福寺を観音堂の別当寺院として不動堂村に遷しています。
後藤家はその後も仙台藩の奉行職や宿老、江戸留守居役等の要職を歴任し、寛保3年(1743)には2千7百石に加増され、明治維新を迎えています。
不動堂要害は本丸に当たる居所と二之丸に当たる西曲輪から成る平城で、二重の堀と土塁、さらにその外側にある三本木川と支流が天然の外堀に見立てられています。
居所の南側には桝形の大手口、北側には裏門が設けられ、周囲には下中屋敷が配されていました。
現在も居所の南東側の堀や井戸等が残され、裏門が皎善寺に霊廟門として移築されています。
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