涌谷城(要害)概要: 涌谷城は案内板によると「涌谷城は、箟岳兵陵を背に北東に深い谷をかかえ、前面は江合川の流れによって守られる天険の要害である。平山城で東西109メートル、南北327メートルの長方形をしている。中世大崎氏の支族涌谷氏の居城であった。現在、涌谷神社のあるところが本丸で、北に空掘、南に物見の松がある。二の丸の西部に腰曲輪(こしくるわ)が張り出し、犬走りも残存している。近世、天正19年(1591)に亘理重宗が入城し以後277年、仙台藩一門2万2千6百余石の涌谷伊達(亘理)氏の要害屋敷として知られた。
天守閣はなく、二の丸が削平拡張されて邸宅風建築が並んだ。伊達騒動で有名な伊達安芸の嫡子宗元が、日光廟修営奉行として出張中、元禄2年9月に失火により全焼し、復興に数年を要した。江戸時代の末期には建築21棟、土蔵3棟となり掘をめぐらしていた。西方1キロメートルに出丸があって上屋敷と呼ばれた。下郡沼の南端寒神沼から引く深い内濠(うちぼり)が二の丸の裾をめぐり、江合川は城の外濠の役目を果した。城東に妙見宮、見龍寺、龍渕寺が建築された。
涌谷大橋の東もとに大手門が設けられ河岸に郷学月将館、内濠を渡ると中の門があり坂を登ると詰の門があった。城下は江合川にそって侍(家中)屋敷を割り出し町屋敷は仙台道に沿う本町、新町と穀船河岸につながる河原町の3町であった。明治2年(1869)登米県庁が置かれて、県知事鷲津宣光が来任した。明治5年居館はすべて取りこわされ、今は詰門附近の石垣と角櫓(すみやぐら)に昔の名残を留めるのみである。 涌谷町教育委員会」とあります。
涌谷城が何時頃に築かれたのかは不詳ですが、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼(大崎氏始祖)の3男彦五郎の2男が涌谷城を築き涌谷美濃守と称したとも、大崎満持の弟である高詮の2男直信が永享3年(1431)に涌谷城を築き涌谷氏の祖となったとも云われています。
大崎氏は奥州管領の役職が形骸化したものの、現在の宮城県北部を領する国人領主として戦国時代末期まで当地を支配し、涌谷氏はその一族として近郷8ヶ郷の支配権が認められていました。
しかし、大崎氏は戦国時代に入ると内乱が続き、それが大きな要因となり天正18年(1590)の小田原の役の際領地を離れる事が出来ず、結果的に小田原参陣を怠り、豊臣秀吉と謁見できなかった事から改易となり、涌谷氏も命運を共にしました。
大崎氏の旧領は豊臣家の家臣木村吉清・清久父子に与えられた為、涌谷城も木村家の管理下に入りましたが、木村家は圧政を行った為、不満含みだった大崎氏の遺臣の反乱も加わり葛西大崎一揆と呼ばれる大一揆が発生し木村家は改易となりました。
代わって岩出山城(宮城県大崎市)に入封した伊達政宗は涌谷城に重臣である亘理重宗に8千8百石余で配しました。重宗の跡を継いだ定宗は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際に白石城(宮城県白石市)攻略戦で大功があり慶長11年(1606)には伊達家の一門に加えられ伊達姓を賜っています。涌谷伊達氏は仙台藩でも重責を担い寛永元年(1624)には1万石、寛永21年(1644)には2万石に加増され家臣であるにも関わらず諸侯(大名)並みの石高となりましたが、涌谷城は一国一城令が発令されると涌谷要害と名称を変えて形式上は城郭では無くなります。涌谷城(要害)の城跡は貴重な事から平成20年(2008)に涌谷町指定史跡に指定されています。
涌谷城太鼓堂(隅櫓)概要: 涌谷城太鼓堂は案内板によると「天保4年(1833)の再建といわれ、屋根には仙台藩一門の象徴として鯱があげられている。極めて素朴な建築で、仙台藩内における楼閣建築として、大変貴重な遺構である。また、この太鼓堂の下の詰之門石垣とともに涌谷館内における藩政期を偲ばせる唯一の建造物である。 涌谷町教育委員会 」とあります。
太鼓堂脇にある天守閣は後年造られた模擬天守閣(コンクリート造)で内部が郷土資料館となっています。
涌谷城跡:上空画像
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 日本の名城・古城辞典-株式会社TBSブリタニカ
・ 現地案内板-涌谷町教育委員会
・ 現地案内板-涌谷町長・涌谷町教育委員会
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