登米要害(寺池城)概要: 登米要害は当初寺池城と呼ばれ築城年代は不明ですが中世は鎌倉幕府の御家人だった葛西氏の勢力範囲内にありました。葛西氏は源頼朝の重臣の1人で当時敵対した奥州藤原氏の平泉攻めや大河兼任の乱の平定などに従軍し功をあげ「奥州総奉行」や「検非違使職」などの役職を務め、現在の岩手県北部から宮城県南部に架けて大きな影響力をもつまでになりました。
葛西氏の本拠地は当初石巻城(宮城県石巻市)だったとされますが、領地経営から寺池城に本城を移し、伊達家から領主を向かえるなど戦国時代に入っても周辺領土を支配していました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めに参陣しなかった事から葛西家は奥州仕置により改易され、代わって豊臣家に従った木村吉清が領主として寺池城に、子供の木村清久は名生城(宮城県大崎市)に入ります。
しかし、悪政と葛西家遺臣などの反感もあり葛西・大崎大一揆が勃発し寺池城は戦火にまみれ、一揆勢は旧葛西領、大崎領全域に広がりましたが、蒲生氏郷や伊達政宗などが鎮圧にあたり一揆勢は各地で敗戦し寺池城、佐沼城ともに落城しています。
その後、一揆は平定されたものの木村氏は責任をとって改易となり、代わって伊達政宗が岩出山城(宮城県大崎市)に入り周囲を所領します。寺池城は一時荒廃しましたが慶長9年(1604)に伊達家一門の白石宗直が1万5千石(後、新田開発などのにより2万1千石)で入城し、天和2年(1682)からは伊達性を名乗る事が許可され登米伊達氏として明治維新を向かえています。
慶長20年(1615)に一国一城令が出された事で、寺池城は形式上は城郭とは認められず、仙台藩(藩庁:仙台城)は要害屋敷としての体裁を整え登米要害として整備されました。
現在の裁判所の敷地を本丸として一段下がった南面に二の丸を配し、東、南、西に内堀、北上川を外堀に見立てています。明治維新後は廃城となり、現在は郭の平場は確認できますが遺構らしいものは少なく葛西氏時代の寺池城の裏門が熊谷家の表門(登米市指定文化財)、城門の一つが養雲寺の山門(登米市指定文化財)として移築されています。
寺池館跡:上空画像
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