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| 登米要害(寺池城) |
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| [ 付近地図: 宮城県登米市登米町 ]・[ 登米町フィールドワーク ]・
[ 宮城県:城郭 ] |
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| 登米要害(寺池城)概要: 登米要害は当初寺池城と呼ばれ築城年代は不明ですが中世は鎌倉幕府の御家人だった葛西氏の勢力範囲内にありました。葛西氏は源頼朝の重臣の1人で当時敵対した奥州藤原氏の平泉攻めや大河兼任の乱の平定などに随行し功をあげ「奥州総奉行」や「検非違使職」などの役職を務め、現在の岩手県北部から宮城県南部に架けて大きな影響力をもつまでになりました。葛西氏の本拠地は当初石巻城だったとされますが、領地経営から寺池城に移し、伊達家から領主を向かえるなど戦国時代に入っても周辺領土を支配していました。戦国末期になると豊臣秀吉による小田原攻めに参陣しなかった事から奥州仕置により改易され、豊臣軍と対峙しますが各地で敗戦し寺池城、佐沼城ともに落城しています。その後、奥州仕置で功の大きかった木村氏が入城しますが、悪政と旧葛西氏家臣などの思惑もあり葛西・大崎大一揆が勃発し寺池城は再び戦火にまみれます。一揆は平定されたものの木村氏は責任をとって移封され、伊達家が周囲を所領します。寺池城は一時荒廃しましたが慶長9年(1604)に伊達家一門の白石宗直が1万5千石(後新田開発などのにより2万1千石)で入城し、天和2年(1682)からは伊達性を名乗る事が許可され登米伊達氏として明治維新を向かえています。一国一城令が出されている為、寺池城は要害屋敷としての体裁を整え登米要害として整備され、現在の裁判所の敷地を本丸として一段下がった南面に二の丸を配し、東、南、西に内堀、北上川を外堀に見立てています。明治維新後は廃城となり、現在は郭の平場は確認できますが遺構らしいものは少なく葛西氏時代の寺池城の裏門が熊谷家の門として移築されています。
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