北方検断屋敷(名取市)概要: 案内板によると「奥州路(街道)の開通に伴い慶安3年(1650)2代藩主伊達忠宗公の時、増田駅が設置された。町場経堂がはじめられてから元禄6年(1693)頃までに増田(宿)駅は街道の中央に水堀が通り所々に小橋がかけられて、街道の両側には一軒屋敷(間口7間、奥行30間と半軒屋敷(間口3.5間、奥行30間)が建ち並び妻向い街村型の宿場のていさいがととのていった。
増田(宿)駅の機能の中心は、交通の世話をする検断役所が置かれ、北町は名取郡北方検断役所(現在市民会館敷地)があり、本町には名取郡南方検断役所(現在うつみ呉服店付近敷地)の二ヶ所に分かれて、前者は長町からの人馬と荷物を後者が中田からの分を継立した。
また、藩主の御参府(江戸に登ること)御下向(所領にもどること)の際に宿泊や小休憩所として北町検断役所の附随して菊池家があてられた。なお、北町検断を務めた菊池氏は、慶長6年(1601)以来幕末まで代々検断職を受継ぎ幕末の菊池善茂氏は肝入職も兼ね宿場全般の政務にたずさわった。
明治時代になって菊池邸の検断屋敷は、増田近郊五ヶ村の「連合戸長役場」、「明治22年増田村役場」、「明治29年増田町役場」となり、この間、明治9.14年の明治天皇東北巡幸の折、御休息所にあてられた。
その時のひの木造小殿は現在増田神社境内に保存されている。さらに、菊池邸内にあった老松は「衣笠の松」として昭和41年、市の天然記念物に指定されている。 名取市教育委員会」とあります。
名取郡北方検断屋敷跡:上空画像
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 現地案内板-名取市教育委員会
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