金山城(要害)概要: 案内板によると「金山城は、標高117mの独立山地を利用して造られた山城である。この城は、永禄年間、相馬の家臣井戸川将監、藤原紀伊が築城したとされているが、天正4年(1576)以降、この城をめぐって、伊達と相馬の間で激しい攻防があり、天正12年になってようやく伊達に帰属することに決まった。伊達政宗は、この戦に最も手柄のあった家臣の中島宗求に、この城と金山本郷、大内、伊手の三邑(2千石)を知行地として与えた。天正16年には、相馬に備えて本城や南の山居、黒森山の各所に、新たに石塁、土塁、堀切などの防衛施設を造り、一段と強固な構えに改築を行った。本丸には居館が建てられ、周辺の平場には、兵具庫、煙硝庫、馬屋を配し、これらを囲む土塀や埋門、陸橋などが設けられた。家中屋敷や町場は山麓に配置された。280年間続いた城は明治維新後、取り壊された。・・・(後略)丸森町金山保勝会」とあります。
戦国時代、金山城がある伊具郡は伊達領と相馬領の境界線に近く、対立の最前線となっていました。天文21年(1552)頃、当時の相馬家当主である相馬盛胤は伊具郡・伊達郡への侵攻を開始し、永禄7年(1564)に発生した名取郡座流川での戦いでは相馬方が伊達方を圧倒し、永禄9年(1566)には金津城と小佐井城を、元亀元年(1570)には丸森城を陥落させました。
金山城は、そのような交戦の中、相馬家の家臣である井戸川将監、藤橋紀伊によって築城され、相馬方の拠点として整備されました。その後も両氏によって度々激しい攻防戦が繰り広げられましたが、天正9年(1581)に小斎城(金山城、丸森城と共に伊具三城の一つ)の城主である佐藤宮内が相馬家を離反し伊達方に転じた事で均衡が破れ、天正12年(1584)に伊達領が確定し一時的和睦が成立しました。
金山城には伊具郡の攻防戦で大功があった中島宗求が2千石で配され、以後、明治維新に至るまで中島氏が城主を歴任しました。慶長20年(1615)に幕府により一国一城令が発布されると「要害」、又は「要害屋敷」と呼ばれるようになりましたが、引き続き城郭としての機能が維持され、明治時代に仙台藩が廃藩になると、その金山要害も破却されています。写真左から1、2枚目が旧武家町。右から1、2枚目が商人町。
金山城:上空画像
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