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| 鵜ヶ崎城 |
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| [ 付近地図: 宮城県岩沼市 ]・[ 岩沼市フィールドワーク ]・[ 宮城県: 城郭 ]
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| 鵜ヶ崎城概要: 鵜ヶ崎城は別名武隈館又は岩沼城(岩沼要害)と呼ばれていました。伝承では源重之(平安時代中期の歌人で後年陸奥国に下向。)が初めてここに城を築いたとされます。その後も数名が利用しているようですが正式な記録等がなく、中世に入った永禄年間(1558〜69)に伊達氏の家臣泉田安芸が8千石城主となっています。以降、江戸時代初期にかけて石田氏、大木氏、遠藤氏、屋代氏、齋藤氏、安久津氏、奥山氏、伊達兵部少輔宗勝、古内氏と数年から10数年毎に領主が変わり、万治3年(1660)には仙台藩から3万石を分地され独立した藩として2代藩主伊達忠宗の三男が田村の性を受け継ぎ田村宗良として領主となりました。天和2年(1682)に田村氏が一関城(現岩手県一関市)へ移り一関藩を立藩すると岩沼藩は廃藩となり再び仙台藩領となり古内氏を領主に迎え明治維新まで続きます。鵜ヶ崎城は近世、岩沼藩として成立していた以外は仙台藩が設けた21の要害の1つと呼ばれ一国一城令が出されると白石城を例外として城郭は「要害」あるいは「要害屋敷」と呼ぶようになりました。しかし、規模は小さいものの、堀や楼門、櫓、石垣なども構える所もあり実態的には城と呼ぶに相応しいものもありました。鵜ヶ崎城(要害)は丘陵の舌状部を利用した平山城で地名に由来する10を数える大小の沼を掘に見立てた堅固な城でした。本丸など城郭の中枢部分は現在の岩沼駅周辺で、駅開設や宅地開発が進むと、堀は埋め立てられ土塁などの高所は削られ、ほとんど原型をとどめていません。鵜ヶ崎城址と標柱が建っている鵜ヶ崎公園には土塁と思われる遺構も見られますが、江戸時代に書かれた絵図から見ると要害(城郭)からは外れているようにも取れます。この様に歴史的遺産をほとんど無視した開発には・・・・。
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