一関街道: 一関城下〜石巻湊

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概要・歴史・観光・見所
一関街道概要: 一関街道は一関と石巻を繋ぐ街道です。参勤交代で利用されることは無く、基本的は人々の往来や物資の輸送に使われました。江戸時代には松尾芭蕉も「奥の細道」の際、石巻から奥州街道に抜ける為に石巻街道を利用しています。このサイトでは宮城県内の石巻街道沿いの集落の町並みや歴史的建築物などの由来等写真を交えて掲載しています。一関は仙台藩の支藩である一関藩の城下町として発展した町で江戸時代前期は一関伊達家、中期から明治維新にかけては田村家が藩主を歴任しました。又、奥州街道と一関街道、今泉街道の分岐点になるなど交通の要衝で多くの物資が集められ経済的にも発展しました。金沢宿は気仙沼街道との分岐点となった宿場町で、交通の要衝として重要視され検断場や問屋場、伝馬所、旅籠などが設置されました。登米宿は登米伊達家が築いた登米要害の要害町でもあり登米伊達家に従った家臣達が住んだ武家屋敷が数軒残されています。又、旧登米高等尋常小学校旧登米警察署など洋風建築も数多く残されており「みやぎの明治村」の異名があります。石巻は古くからの湊町で、特に江戸時代に入ると仙台藩により大規模な開発が行われ、北上舟運によって現在の岩手県側にあった仙台領の年貢米は石巻に集められ、仙台、江戸、大坂に運ばれていきました。


奥州街道(岩手県:二戸宿〜一関城下)
一関街道
一関城下(一関市): 一関市一関藩3万石の城下町。近世初頭の一関市は伊達政宗の十男宗勝が伊達藩から独立し一関藩三万石となります。しかし、本家である伊達藩主の跡目相続問題から世にいう「伊達騒動」が勃発し宗勝は首謀者の1人として改易(領地没収の上土佐藩に身柄預かり)されます。その後、同じく伊達一族で岩沼(現宮城県岩沼市)から田村氏が三万石で入り明治維新まで続きます。洪水や都市化の為、城下町として風情は少なく旧沼田家住宅などの遺構が残っている。
観光・旅行・見所 : 旧沼田家住宅・配志和神社・祥雲寺・願成寺・一関教会 など
一関街道
金沢宿(一関市): 
観光・旅行・見所 : 町並み・寶持院 など
一関街道
登米町(登米市): 登米町近世に入った慶長9年(1604)に伊達家一門の白石宗直が1万5千石(後新田開発などのにより後に2万1千石)で入城し、周辺を統治し、現在の登米町の原型となる町づくりを行います。登米町は一関街道(一関〜石巻)と登米街道(築館〜登米)が交差する交通の要所で北上川舟運の川港でもさった為、周辺の政治的、経済的な中心地として重要視され、仙台藩の中でも高禄な伊達一門を配しました。現在でも城下町の風情が残る町並みがあり武家屋敷や商家建築、洋風建築など点在する史跡が多い町です。
観光・旅行・見所 : 旧登米高等尋常小学校・旧登米警察署庁舎・旧水沢県庁庁舎 など
登米街道  平和街道  奥州街道 奥州街道
石巻市: 石巻市江戸時代は仙台藩の主要港として発展していきます。特に北上川の河口という事もあり石巻港には年貢米を中心に多くの物資が集められ、藩の米蔵は45棟を数え舟運船は836隻、千石船は560隻あったと言われています。明治維新後は一時石巻県が置かれ、石巻市がその中心となりましたが、後年は宮城県に含まれます。現在の石巻市の町並みは港町らしく路地も多い複雑な構造を残していて大正から昭和初期の建物が目立つ独特なものを感じます。
観光・旅行・見所 : 零羊崎神社・鹿島御児神社・鳥屋神社・旧石巻ハリストス教会 など
一関街道
石巻街道(宮城県:石巻湊〜仙台城下)


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